被災された方々、
今も避難所での生活を余儀なくされている方々、
家に帰る事はできても尚、
ライフラインや必要なものが確保されず苦しんでいる方々のため、
私たちの主に助けを祈ります。
また、愛する方々や大切なものをすべてをなくした方々が
生きる希望を失わないよう、心から祈ります。
CANのディレクター、ポールは今この組織と協力して働いています。
“Love on Japan” CRASH Mobilizes Volunteers in Japan
そして、CANのスタッフの一人、高奈美香は仙台市内にて被災しました。
現在は自宅に戻り、助けを必要としている人たちのため働いています。
彼女がmixiにアップしたレポートを転載しますので、読んでみて下さい。
心を合わせて祈り、また一人一人に示されたように、
動いて行きましょう。
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「無事です。」by 高奈美香
一昨日、避難所から家に戻りました。
皆さん、ご心配かけました。そしてお祈りありがとうございます。
ひとりひとりに返事をする事ができなかったり、
もしかしてうっかり返事をし忘れている人もいるかもしれません(すみません)、でも私は無事です。
昨晩は夫が東京から新潟経由で無事帰宅しました。
宜しければ、心配している他の方々に下記の内容をかいつまんで説明して戴ければと願っています。
地震発生時、私は調理をしていました。
揺れが始まったので、ガスを止め、すぐに机の下に(何か大きな地震のような予感がしたので)
マンションの部屋がまるで飛行機の中のように上下左右に激しく揺れ始め、
動く動き出す机や椅子にしがみついているという状態でした。
あまりの恐怖で、大きな声で「イエス様、イエス様」と何度も叫んでいました。
外の電線は激しく揺れて、このマンションも非常に安全と言われているのですが、
もの凄い音がし始めたので、「もしかして崩れるかも」と思い、
意を決して靴も履かずに外に飛び出しました。
外では、車があちらこちらに停車。
外にいた方々も何かにしがみついている状態でした。
向いが、うちの不動産屋だったので、
「高奈さん、車に中は暖かいからそこに避難してテレビ中継を見ていて!」と言われ、
暫く車中にいました。
駐車している車も海に浮かんでいるように動き、
いつ近くのビルから何かが崩落してくるのでは?と警戒しながら東京からの放映を見ていました。
直ぐに大阪の友人(震災を体験)から電話。彼が実家に私の無事を報告。
夫からのメールに「生きてます」返信をしたところでもう誰とも連絡ができない状態になりました。
余震も凄かったのですが、家にもどり、できるだけ暖かい洋服を来て、必要なものをそろえ、
懐中電灯を買いに近くの西友へ。
でも、もう閉店。
反対側の荒町の商店街に行き、小売店で懐中電灯を購入。
近くの花屋(花を習っています。)を訪れてとにかくお互いの無事を確認しました。
外は信号が麻痺。
家の前の通りは8車線の大通りの交差点なのですが、
みなさんクラクションもならさずにお互いに譲り合いながら通行していました。
家に戻ってみるとプリンター、パソコンモニター、トースターが落ちていましたが、
引っ越しで殆どものがパッキングしていたので、幸いなことに何も壊れていませんでした。
水が出たので、ペットボトルとお風呂に給水をして、余震におびえながら自宅に避難していました。
余震の数も大きさも凄くて、その晩は近くの小学校へ毛布を持って避難。
隣に座っていた老夫婦(中島さん)に毛布を分けると娘夫婦と子供が一緒の事。
直ぐにその家族と仲が良くなり(奥さんが私と同い年でとてもきさくな人なのです。)、
中島さんなど数人の男性にうちに来てもらい、
引っ越しのためにまとめていた7、8枚の毛布や布団を運び出しました。
避難所は、近所の方々(家の中がめちゃくちゃ)、旅行者、外国の方々、
学生達がどんどん集まってきて1000人以上に膨らみました。
皆さん、何も持ってこれない状態だったので
毛布などを皆で分けて(1枚の毛布に3人くらい入って)その晩は過ごしました。
でも、余震と寒さで殆ど方々が眠れぬ夜を過ごしたと思います。
2日目(土曜日)避難所はお昼に電気が復興。
水はまだでトイレの問題があったので、うちのトイレを使ってもらったりしました。
その間、外人の旅行者たちの通訳をしたりしながら午前中を過ごしました。
午後は、うちも電気も復旧したので、そこで初めて地震の映像をみました。
(避難所にも号外は届いていたり、ラジオで状況はずっと流していました。)
電気ポットでお湯を湧かしたり、家にある食料を分け与えたり、
ご飯や総菜を作って持っていったり、夫が沢山持っていた下着(履いてないやつ)、
タオル、石けんをあげたり、夜は毎晩泊まっていたのですが、日中はいったり来たりしていました。
3日目(日曜日)外人さんたちが、どうにかして帰国したいという事で情報をもらいたいのですが、
本部も分からない状態。国際センターからボランティアの方々が来られたのですが、
彼らも被災者なので、様子が分からない状態でした。
私たちのところの災害本部の人たちはほとんど年寄りの人ばかりで、
インターネットの質問とかにも何も答える事ができない状態。
そして炊き出しも、手伝おうとしても「悪いからやらなくていいから」と言ってしまうような人たち。
指示をして人を動かせる人がいないので、だんだん若手の人たちにイラダチが・・・。
キッチンの方でも、年配の方が、自分のやり方でしかやらせてくれない状態だったので、
本当に非効率的で朝食も10時くらい。そして全部の料理が冷たくて冷めているのです。
若い女性たちがいるのに、何をして良いのか分からず、フラストレーションがたまっていました。
家にいる時に、夫の学生が心配して訪れてきました。
彼の所は水、電気、ガスが全部止まっているという事。
他の学生の実家は気仙沼。みんな実家との連絡がとれずに心配していまし。
避難所でも、親戚や友人たちが海側に住んでいる人たちも沢山おられ、
連絡がとれない状況や放映されてくる悲惨な状況を見て非常に不安な状況でした。
皆の顔がとても暗くて、挨拶しても呆然している方々もおられます。
4日目(月曜日)携帯からも家電から連絡がどうにかとれるようになって、
何人かの方々に連絡を取る事ができました。
私たちの引っ越しが明日(17日)なので、どうなるのかな?と心配していたのですが、
不動産屋、移るマンション、引っ越しセンター、銀行に連絡して、
すべての条件が整って引っ越しが予定通り明日になる事になりました。
今度のマンションはオール電化なのでお湯も出るので、
何かまた提供できる事があればと願っています。(特にお風呂)
引っ越し先が若林区という事で心配をかけていますが、
こちらは夫々の区がとても大きくて、
私のマンションは今のマンションから道路を隔てて向かい側にたっている近さです。
そして高層マンションにもかかわらず、免震構造という事で食器が一枚も割れなかったようです。
5日目(火曜日)炊き出しの手伝い、そして総菜作り、
近くの方々に声をかけたり、暖かいスープをさしあげたり、
本当に数人の方々にしかできないのですが、自分ができる事をとりあえずやってきました。
皆、2回の食事配給、寒さ、不安の中にあると思いますが、
本当に文句も言わずに励まし合いながら耐えています。
夜には夫が戻ってきて、昨晩は初めてコートを脱いで寝ました。
でもまだ怖くてパジャマには着替えれません。
6日目(今日)
明日が引っ越しなので、今日は家にいる予定です。
でも皆さんの様子を見に行こうと思っています。外は雪です。今もまた余震がありました。
この地震で全く知らなかった方々と知り合うようになりました。
そして、皆が協力して困難を乗り越えている姿を見ささてもらっています。
夫々が、自分に何ができるだろうか?と考えています。
津波に見舞われた方々の大きな悲しみが癒されますように祈りましょう。
こんな状況の中で「神様は愛です」という事をどのように伝えられるのだろうか?と考えています。
今は自分ができる事。
食べ物を供給する事くらいしかできませんが、それを続けていきたいと思っています。
今は原発が最悪の状況にならないように祈っています。






